第五章、秀吉の天下統一

信長の死と合わせて、信長の長男の信忠も死んでしまい今後の織田家の当主をどうするのかを決める会議が、清洲の城にて開かれました。世にいう清洲会議と呼ばれていますが、この中で秀吉は信忠の子の三法師(当時三歳)を担ぎ出します。
信長の子では次男の信雄と三男の信孝が残っていましたが、やはり明智光秀を討ち取ったその功績が大きく物を言い秀吉の考え通りに決着がつきますが、このとき秀吉の腹の中には、自分がこの後の天下を取るとの考えがありました。
この秀吉に対して織田家の重臣の中では柴田勝家は当然面白くありませんでした。いつのまにか秀吉の存在が大きくなっていたからです。当然次男の信雄も三男の信孝も不満でしたが、この後でこのしこりが噴出す形になります。

ところで、信長の妹のお市は浅井長政の死後清洲の城に住んでおりましたが、三男の信孝に請われて柴田勝家の妻になります。お市には三人の美人姉妹の子供がいましたが、この子供たちも歴史の渦の中でこの後には数奇な運命をたどってゆきます。
この様なそれぞれの考えの中で、当然新しい火種が燃え上がろうとしていましたが、この頃家康はどうしていたのでしょうか。
家康は信長の跡目争いの中には加わらずに、甲斐や信州の大名たちを自分のもとへ誘い込むのに力を注いでいました。そしてこの後には秀吉とも一戦交える覚悟で着々と力を蓄えていました。

ところで秀吉は信雄と信孝の仲の悪いのを利用して、次男の信雄を担ぎ出していずれ決着をつけるべく信孝と柴田勝家に対して先制攻撃を開始します。時は12月の中旬ごろですから北陸北ノ庄にいる勝家は身動きできない状態ですから、簡単に勝家に渡した長浜の城を取り返し更に信孝を降参させ、伊勢にいた滝川一益を攻め立てますが、この時期になりますと勝家が雪をかきかき南下してきます。
秀吉は伊勢攻めを信雄に任せて、自分の軍を反転させます。
そして勝家軍と琵琶湖の北岸の賤ヶ岳を中心に、にらみ合いの状態になります。このままでは身動きできないと一旦降参したのに勝家の動きにあわせて岐阜の城へ立てこもった信孝を先に討ち取らんと秀吉は守備隊を残して、ほとんどの軍を大垣へと動かします。これはいわば陽動作戦でこの秀吉の動きをみて勝家は今の内にと攻撃を開始します。勝家の動きをみた秀吉の本軍は一斉に反転して賤ヶ岳へと向います。光秀との戦の時もそうでしたが、秀吉の軍隊の移動の速さは目に見張るものがありました。

そしてこの後の賤ヶ岳の攻防戦は賤ヶ岳の七本槍と賞されるように秀吉軍の加藤清正や福島正則などの奮闘で一方的な秀吉の勝利となります。敗れた勝家は北ノ庄に落ち延び最後は妻のお市とともに自害して果てます。このとき三人姉妹を死なすには忍びないと城外にかくまって助けますが、やがて秀吉は探し出して自分の保護下におきます。
なお信孝は兄の信雄に攻め立てられついに自害します。これで一旦は跡目相続争いは収拾しますが、この後まだこの争いの続きが起こります。

秀吉と前田利家
前田利家は幼名犬千代と呼ばれていて、秀吉とは親しい友人関係でしたが、その領地は越中であったため、秀吉と勝家との争いの中で勝家に従い出陣しますが、いたたまれずに自分の城へ立ちかえり、この争いを傍観する態度をとります。勝家も利家の心情を理解していましたので、あえてその態度を責めませんでした。勝家の自害後、利家自身も死ぬ覚悟でしたが秀吉に是非お力をいただきたいと申し出られて、この後には秀吉の臣下となります。
この前田家はその後徳川の時代になっても加賀百万石の大名として存続します。

信雄は秀吉が今度は自分が邪魔だから、そのうちに攻め込まれて殺されるとのうわさに悩まされます。
たぶん秀吉が意識的に流したデマだと思いますが、信雄は疑心暗鬼になり、家康へ援助を申し入れます。家康も特に秀吉を憎む理由はありませんでしたが、このまま秀吉をのさばらせるのは面白くないと考えていましたので、この申し入れを受け入れます。
秀吉も家康の力を恐れていましたから、盛んに贈り物をしたりしていましたが更に自分に味方してくれたら美濃と尾張の国を差し上げようとの申し入れを家康が「家康を見くびるな」と使者を追い返したことで秀吉と家康はついに戦う事態になります。

秀吉軍と家康、信雄軍は尾張の小牧山あたりで対峙します。このにらみ合いは春から秋にかけて延々と続きますが、じれた秀吉軍の一部が家康の本国の三河に入り込み荒らしまわりますが、家康軍に追撃され長久手のあたりで散々打ち負かされます。秀吉もいまさらながら家康の強さを感じていました。このままでも仕方ないと信雄に対して和議を申し入れます。信雄も秀吉が礼儀を尽くしたことで悪い気持ちはせずに講和に応じます。家康も依頼主が和議に応じたことで仕方なく自分も秀吉と仲直りをします。

秀吉は家康の次男於義丸(後の結城秀康)をもらいうけ、更に自分の妹の朝日姫を妻に迎えてくれるようにたのみ、家康も申し入れを受け入れます。
しかし家康は完全に秀吉の臣下になる気持ちはなく、そのころ完成した大坂城へ是非きていただきたいとの申し出をことわっていました。秀吉は更に自分の母親を人質として家康のもとへおくります。その上で是非大坂へお越しいただきたいとの申し出に、ついに家康は大坂へ出向きます。
こうして秀吉は最大の強敵でした家康を味方につけ、その勢いは日本中に浸透してゆきます。
地方では関東の北条家や東北の伊達家、そして九州の大友家、島津家などまだ屈服していない大名は残っていましたが、主な大名は秀吉へ服従する姿勢をとっていましたのでほぼ天下の体制は秀吉の天下統一で固まってゆきます。

家康が秀吉の力を認めざるを得なかったのは、やはりその財力の違いを感じたからですが、時期をみる為に更に自国の運営に力を注いでゆきます。

 

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このページの最終更新日は:2009/12/16