第六章、秀吉の栄華と豊臣家の末路

秀吉は自分の力を誇示するように、大坂城を財力に物を言わせて作り上げました。姓を豊臣と改め天皇より関白太政大臣の地位につくのを許されて、最高の地位まで上り詰めます。
京都には聚楽第と称される別邸を造営して、天皇の行幸を仰ぐことになります。いわば天皇が家来の屋敷を訪ねることは異例のことだったのです。
それぐらい秀吉の力は大きくなっていたのでした。

秀吉は正室のねねとの間には、子供には恵まれませんでしたが、信長の妹のお市の方の子供で茶々と呼ばれていた女性(後の淀君と呼ばれた方です)との間に男の子が生まれます。
名前は鶴松となずけられますが、54才にして子供に恵まれた秀吉の喜び様は異常なぐらいでした。
このような間にも秀吉は九州の島津家を降参させていまして、残る大物の大名は関東の北条家ぐらいになっていました。

北条家は北条早雲を先祖として関東地方のあるじとして100年もの繁栄を続けていましたが、この当時の当主は北条氏政でしたが、秀吉なんぞに頭を下げられるかと抵抗を続けていました。
1590年2月秀吉は全国の大名に小田原攻めに参陣するように命令を発して、自ら大軍を率いて出陣します。
北条氏政は小田原城に篭城しますが、周りの北条家の城はすべて落とされ更に15万の大軍に取り囲まれて、ついに氏政は降参します。
ここに完全に秀吉の天下統一が完成したことになりました。

この小田原攻めが一段落した頃、家康は秀吉から関東への国替えを持ち出されます。家康には秀吉の腹の中が読めていましたが自分も一旦秀吉の近くから遠ざかりたい考えもあって、この話を承知します。
新しい領地を治めるにはそれなりの資金も必要でしたし、秀吉は家康の力を弱めたいと考えていたと思います。更に日本の中心の京都から遠ざかる形になりますから、秀吉には好都合だったのです。
しかしながら結果的には、この国替えが現在の日本の首都東京を造る元になったのです。

秀吉の心の乱れ
さてここまで自分の力が大きくなった秀吉は、この後どのような行動をとったでしょうか。信長もそうですがどんどん自分の領地が拡大している間は問題ないのですが、日本中が支配下となっては国内には拡大する領地は残っていない状態ですから、その目は海外へ向けられてゆきます。
自分の力を過信している状態で、側近で諫言する人もいないありさまですからどうにも止まらない状態になってゆきます。
この頃秀吉には悲しいことが続くことになります。
まず、父違いの弟秀長を病で失い、更に最愛の子供鶴松も三歳で死んでしまいます。秀吉はもう自分には子供はできないと考えたのか、関白の地位を養子の秀次に譲ります。
そしてこの悲しみを紛らすように、目を海外へ向けてゆきます。

朝鮮国王に手紙を出し、従わなければ武力での侵略を表記します。朝鮮国王も応じずについに秀吉は朝鮮出兵を開始します。実際に出兵するのは全国の大名とその家来ですからその費用はすべて各大名が負担する形になります。
今の佐賀県の呼子付近の名護屋に城を造り、ここを拠点にして海をわたります。今でもその当時参陣した全国の大名の陣屋の配置などが資料として残されていますが、その規模は相当なものだったと思います。天守閣は残っておりませんがその壮大な規模が当時を忍ばせます。

さて朝鮮半島に渡った日本軍は、当初は勝ち続けて平城も侵略して更に明国との国境近くまで進出しますが、この頃になると明国もこのままでは自分の国まで侵略されると考えて朝鮮軍の応援に乗り出してきます。更に朝鮮海軍の大将で李舜臣に海戦で大負けして輸送路を断ち切られます。
いくら陸戦で勝っても、食料が届かなければ戦い続ける事は困難な事態になってゆきます。
各大名も戦いを止めたいと考え始めていた頃、淀君が男の子を産みます。この子供が後の秀頼になるのですが、諦めていた秀吉の喜び様は前にましてすごいものでした。
秀吉は大急ぎで大坂へ帰りますが、朝鮮との戦争も一時休戦状態になります。

さてここに自分の子供ができたことにより、先に関白の地位を譲った秀次との間に微妙な関係が生じました。秀次も人物としてはそんなに立派な人間ではなかったようでかなりの乱脈ぶりだったようです。怒った秀吉は秀次に腹を切らせます。
こんな身内のいざこざの中で、朝鮮や明国に対して「いうことを聞けば許してやろう」などと使いを出しますが「馬鹿なことを言うな」との返事をよこします。怒った秀吉は再度朝鮮攻めを命令しますが、今度は明国も本格的に参戦してきましたので、思うように行かなくなっていました。

このような中で、体力の衰えた感じていた秀吉はわが子秀頼の行く末を案じて有力な大名にわが子の将来を託します。
このとき依頼された各大名ですが
五大老として
   徳川家康、前田利家、宇喜田秀家、毛利輝元、上杉景勝
五奉行として
   浅野長政、前田玄以、石田三成、長束正家、増田長盛
を選んでいます。もちろんこの中で家康をもっとも頼っていた事は間違いないと思いますが、家康はこのごろの秀吉の所業に少なからず眉をしかめていました。もし秀吉亡き後は自分が天下をとり国をまとめると考えていたと思います。

そしてついに秀吉は63歳の生涯を閉じますが、少なからず秀吉が晩年にやったことに対して豊臣家の家臣の中でも実戦部隊の加藤清正、福島正則などと事務担当だった石田三成などとのあつれきが発生します。

家康は秀吉が人気を失うのをじっと見守っていました。そして秀吉の直参の家臣の中から自分の味方になりそうな大名と次々と気脈を通じるようにしていたのでした。
家康の長い辛抱の時期がようやく終わろうとしていました。

 

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このページの最終更新日は:2009/12/16