第八章、大坂冬の陣

家康は、今回の石田三成との戦いで豊臣家の実戦部隊が三成を嫌っているのを利用してものの見事に成功しましたが、やや不満の残る結果になりました。余りにもあっけなく西軍が総崩れになったために大坂城へ軍を進める理由がなくなってしまいました。
できれば戦いが不利になった三成が助けを求めて、大坂城へ逃げ込み家康が大軍を持って引渡しを求めて大坂城を取り囲む。成り行きしだいでは大坂城の当主、秀頼の責任を問題にして一挙に豊臣家を滅ぼす。
こんな形が一番家康にとってみれば、理想的だったと思います。秀吉が死んで求心力はなくなってもその恩顧を受けた大名はまだ多数残っていました。今回のことに関しても三成憎しとして戦っても、では豊臣家を滅ぼすために戦うかとなると、まだ時期ではありませんでした。

家康は今度の争いで西軍についたほとんどの大名の領地を没収して、大幅な国替えを実行します。特に豊臣家恩顧の大名はより遠くの領地へと移動させました。そしてその国の京都よりの位置には必ず徳川家の親族の大名(
親藩大名と呼びます)、または関ヶ原の戦い以前から臣下だった大名(譜代大名と呼びます)を配置する。このようにして細心の注意を払ったのでした。
つまり大坂城を完全に孤立した存在にしてしまったのです。

関ヶ原の戦いから3年後の1603年、家康は天皇から征夷大将軍に任命されます。
足利義昭が信長に京を追われてから30年ぶりに、武士として頂点を極めた形になります。ここで正式に江戸幕府が誕生したことになります。
この頃になりますと、各地の大名もほとんど家康に頭が上がらない状態になっていました。
将軍になって2年ほどで「わしは隠居して将軍は秀忠に譲る」と天下に発表して駿府の城へ移り、隠居の身になります。
残りの気がかりは、大坂城の秀頼のことでした。この頃には孫の千姫を秀頼の妻として大坂城へ嫁がせていましたが、現在では1大名に過ぎない秀頼がなんとしても、自分に頭を下げないことが気がかりでした。母親の淀君が頑として「家康なんぞに頭を下げられるか!」と拒んでいました。
加藤清正が「私が必ずお守りする」と必死に説得して、いやいやながらもようやく二条城で秀頼と家康の会見が実現して家康もいくらかは機嫌を直しますが、その後も豊臣家の考えが「徳川には頭を下げぬ!」との考えを変えようとせず、さらに新しく浪人を召抱えたり、鉄砲火薬を買い込んでいる情報を聞いて、「わしの目の黒いうちに豊臣の後始末をつけねばならない」と決心を固めてゆきます。

ただ攻め滅ぼすにはそれなりの大義名分が必要で、家康はその機会をずっとうかがっていました。
そんな折京都の方広寺の建て直しをしてその鐘楼にかける釣鐘に国家安康、君臣豊楽と彫られているのを「わしの名前を二つに切って、さらにその下に豊臣家を天下にいただいていると世の中が楽しくなるとの意味がこめられている」と秀頼に文句をつけます。
大慌てした豊臣家では「決してそのような意味ではありません」と釈明をしますが、家康は頑としてそれを受け付けず、「本当に徳川将軍家に従うつもりがあるのなら、大坂城を出て別の国へいってもらうか、母の淀どのを人質として江戸へ送ってもらいたい。この二つのどちらかだ。」と条件を突きつけます。ほかの大名は忠誠の証として妻子などを江戸の屋敷に住まわせていましたから、家康としたら同じことを求めたのです。

この家康の話に淀君は火がついたようにおこり、「こうなっては徳川と戦うしかない!」とついに決断します。

豊臣家の認識不足
豊臣家から恩顧の大名にあて、味方してくれるように使者をつかわしますが、「いまさら徳川将軍家と争うとは馬鹿なことだ」と誰一人駆けつけてくれませんでした。時代の流れを読める人物が残念ながら側近にはいなかったのです。

大坂城に仕えていた大野治長兄弟、木村重成、薄田兼相、明石全澄などの豊臣の家臣と、寄せ集めの浪人部隊で、迎え撃つしか方法は残されていませんでしたが、それでも真田幸村、長宗我部盛親、毛利勝永、後藤又兵衛などの有名な武士も含まれていました。
特に真田幸村は関ヶ原の戦いが起きた折には、徳川秀忠の軍勢を信州上田で釘づけにして関ヶ原の合戦に間に合わなくした功労者でしたが、その後紀州の九度山に押し込められていました。父の昌幸はすでに死んでいましたが、幸村は「是非とも家康に一泡吹かせてやりたい」との意気込みで大坂城へ乗り込んできました。
ただ浪人たちがいかに進言しても、城の外で迎え撃つことは許してもらえず、あくまで城の中だけの篭城戦となりますが、幸村は城の外に砦(真田丸と呼ばれました)を築きそれを足がかりに敵を攻撃するようにします。

真田の赤備え
幸村は今度の戦いに鎧兜などの具足をすべて赤にして戦いに望みましたが、当然部下たちもそれを見習いすべて赤備えの軍団が出来上がります。赤備えとは敵からも目立つ存在ですから、「幸村ここにありいつでもかかって来い」と宣戦しているようなもので、よほど戦いに自信がなければできないことです。

だんだんと大坂城は動員された大軍に押しつつまれて、各地で小競り合いが始まりましたが特に城の南に築いた真田丸を使って、幸村は自由自在に敵を翻弄します。
徳川の軍勢は過去に2度も真田の為にいいようにあしらわれたことがあり、真田の名前を聞いただけで今度は何をやられるやらとの恐怖心もつのり、やることなすこと幸村の作戦にはまってゆきます。
家康もただ力攻めでは味方の犠牲が大きすぎると考え、射程距離の長い大砲を使って大坂城の天守閣を狙い撃ちする作戦に出ます。
この砲撃で、天守閣にも直撃弾があたったりして淀君の恐怖心をあおるには十分な効果を上げます。
ころあいを見て、「そろそろ休戦しないか」と家康は持ちかけます。
秀頼は反対でしたが、淀君の強い意向もあり休戦協定が結ばれます。

協定の内容は
1、大坂城の惣構えの外堀を埋め、矢倉、塀などの防備施設の破却を関東方がお 
  こなう。
1、二の丸、三の丸の堀の埋め立てと、防備施設の破却を大坂方がこれをおこな
  う。
1、秀頼の領地は以前のままでよく、大坂を立ち退きたいのであれば望みの領国
  をあたえる。
1、淀君は人質として江戸へおもむくにおよばず。
1、そして徳川家康は、城の中の西軍に対して、何の害もあたえぬこと。
大体このような内容でした。

こうしていったん戦いは終わりましたが、家康はすぐに大坂城の打ち壊しに取り掛かります。
協定では二の丸、三の丸の堀は大坂方でやるとなっていましたが、遠慮なく打ち壊して埋め立ててゆきます。驚いた豊臣家が抗議しても、のらくらと逃げられいつのまにか、大坂城はすべての堀を埋め尽くされ、丸裸の城になっていました。

家康はこの戦いをはじめる前に徳川家に対しての淀君の考えが変わらないのを確信して、完全に豊臣家を滅ぼす意思で取り掛かっています。その家康の本心を読めずに豊臣家は滅亡の道を転がってゆきます。余りにも淀君の気位が高かったために、最後まで家康に頭を下げることができなかったのです。
この頃の家康は、以前のように気長に構えることができませんでした。何しろ年齢は70を超えていましたし、この時代では長生きした方でしたが、自分が生きている間に問題の芽を完全につぶしたいと考えていました。

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このページの最終更新日は:2009/12/16