第九章、大坂夏の陣

家康は二条城にしばらくとどまって、大坂城の工事の状況を確認をして駿府へと一旦は帰りますが、頭の中には次の戦のことを考えていました。
できることなら大坂方から問題を起こして、それに対して自分が立ち上がって討ち滅ぼす。このような形になることが一番理想的なことでした。
そのためには、大坂方が問題を起こすように仕向けなければなりませんが、家康は鉄砲、大砲を大量に発注しその情報をわざとばら撒きます。
停戦協定も無視されて、いつのまにか裸城にされていた大坂方は、「家康は必ず豊臣家を滅ぼすつもりだ。それならこちらも戦の準備を今の内に整えなければならない」と武器弾薬、兵糧の買い付けに動き出します。まったく間の抜けた話ですが、何から何まで家康の考えの通りにことが運んでゆきます。

ころあいをみて家康は「大坂城では再び戦の準備をしているではないか。本当に徳川将軍家に従うつもりがあるのなら、大坂城を出て他の国へ移れ」と最後通告をします。

これに対して、多少家康にすがってでも豊臣家を残したいと考えていた大坂方は完全に追い詰められて「こうなったら再度戦うしかない!」と決意を固めてゆきます。この頃になりますと大坂方を見限って城から脱出する人が大勢ではじめますが、淀君の叔父の織田有楽もついに見限って城を出ます。
この頃の大坂城には、家康のスパイも相当数もぐりこんでいましたから、城方の情報はすべて筒抜けの状態でした。
ただ残った、豊臣家の家臣と浪人たちはすべて死を覚悟して今度の戦いに備えていましたから、その決意は冬の陣のおりとは格段のものでした。
この中で真田幸村も今度の戦いで真田の戦術を駆使して、できることなら家康を討ち取りたいと考えていました。思い通りにならなくてもこの戦いが自分の最後の戦いと位置付けて、天下に真田の名を轟かして死ねれば本望と、考えていました。
家康に動員された全国の大名の部隊が、次々に集結して各攻め口に配置され、いよいよ豊臣家の最後の戦いが始まります。

今回の戦いでは城方は篭城戦はできない状態になっていましたから、いずれの部隊も外へ出陣して戦いますが、幸村は冬の陣では家康の本陣があった茶臼山に陣を構えて敵の部隊を凝視していました。
目標はあくまで家康の本陣でその前衛部隊は相手ではなかったのです。

西暦1615年6月3日、最後の戦いが始まります。幸村はすぐ隣に陣を構えた毛利勝永の部隊の助けも借りて、目標の家康の本陣をめがけて突進して行きます。
その急激な突進に、家康の本陣の護衛をしていた旗本たちの中には慌てて我先に逃げ出す者も相当いたと言われていますが、一部の旗本の奮戦でどうにか家康は無事でしたが、いまさらながら「真田は手ごわい」と思い知らされていました。

ただいかに幸村が奮戦しても、3倍の敵を打ち破ることは不可能でした。体に無数の傷を負って最後には息絶えますが、思い通りに戦って死ねたことに悔いはなかったと思います。

余談になりますが、この幸村の奮戦は今回家康にしたがって出陣した武将の間でも評判になり「真田の兵は日本一の軍隊だ」と敵の武将をほめたといわれています。
幸村の妻子はその後捕らえられますが、家康は寛大な処理をして幸村の死にこたえます。ただ将軍の秀忠は家康の処理に不満でした。関ヶ原の戦いのおりに、信州上田で足止めを食って戦いに間に合わなかったことが、いつまでもしこりになっていました。
幸村には兄の信之(上州沼田城主で家康に仕えていました)がいましたが、秀忠は幸村に対しての恨みから兄の信之に対しても冷たく扱いますが、後の3代将軍家光の時代になって「真田は徳川の宝よ」とこよなく大事にされたと言われています。

話を本題に戻しますが、幸村も戦死してあとは落城を待つばかりとなった大坂城ですが、秀頼には家康の孫娘の千姫が正室として大坂城内にいましたが、この千姫を家康に返すことで何とか秀頼と淀君の命を助けられないかと最後の望みを託しますが、すべて拒絶されます。
望みを絶たれてついに、秀頼や淀君などの残された人々は自害して果てます。ここについに豊臣家は完全に消えてなくなったのです。

この大坂の陣に関して、余りにも無理難題を浴びせられて滅亡した豊臣家に対して世間では多くの人が同情を寄せました。淀君の存在がなければ秀頼の運命も変わっていたと思いますが、余りにも世間知らずに育てられたために、ついに自分の意思で自分の身に降りかかった火の粉を振り払えなかったということでしょうか。

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このページの最終更新日は:2009/12/16