和算家の顕彰碑等

 

 当ホームページで以前紹介した和算家の顕彰碑などです。

( 少し時間が経っていますので、変っているものがあるかもしれません。)

 

 

(2016年1月号)

   

和算の大家 関孝和(せきこうわ) ※「上毛かるた」の『わ』の句
(写真は群馬県藤岡市市民ホールにて撮影)



(2016年3月号)

    

和算の関流第四伝宗統 藤田雄山貞資(1734~1807)は、武蔵国本田村(数度の合併により現在は深谷市)
に生まれました。

深谷市の川本公民館には顕彰碑があり、荒川を挟んだ南側にある生家には生誕の碑が建てられています。

藤田雄山貞資先生顕彰会の紹介(19.5月より掲載)


(2016年4月号)

伊能忠敬(1745~1818)は17歳の時 佐原(千葉県香取市) の伊能家の婿養子となって酒造業等
の家業を営み、また、名主としても活躍し、49歳で隠居しました。

そして、50歳で江戸の天文方 高橋至時に入門し、天文学、測量学等を本格的に学び始めた
のです。

55歳の時、子午線1度の弧長を正確に知るため(地球の大きさを知るため)、測量との名目で
北海道に入りましたが、ここを手始めに 全国を測量することになります。

全国測量には、測量や暦学に通じ 現地の地理にも詳しい多くの和算家達の協力があったようです。


忠敬像 象限儀


(2016年5月号)

小野栄重(1763~1831) は1789年に江戸へ出て、 藤田貞資の下で算学を学び、また、伊能忠敬から天文学、
測量術を学びました。

1803年には伊能忠敬の第4次測量に参加しましたが体を壊し、以後は郷里である板鼻(安中市) の塾で門人の
教育に専念し、剣持章行、斎藤宣長等多くの優れた和算家を育てています。

5歳の頃、夜に2階でじっと空を眺めているので心配した家人が訊いたところ、星の数を数えていた、
と答えたとの逸話が伝えられているようです。


栄重の案内板

南窓寺(安中市)にある栄重の墓の横に立つ案内板


(2016年6月号)

石森村(現在は福島県田村市船引町石森)に生まれた最上流和算家 佐久間庸軒(?,1819~1896)は、子供の頃より父の佐久間質や儒学者 奥村俊蔵から学問を学び、1836年には二本松の最上流和算家 渡辺一の門弟となりました。師が亡くなってからは、全国各地の和算家を訪ねて研鑚を続けています。

1840年から大円鏡智流剣術、1846年からは測量学も学び、それぞれ奥義を伝授されました。

藩校の算術教授、磐前県の職員等を経て、1876年に故郷の石森村で庸軒塾を開設しました。門弟は2,000人を超え、ほとんどは農民で女性もいたようです。

大変な勤勉家、努力家でもあり、「厠に入るも猶ほ書を閲す為めに厠内に書架を設け置きしといふ」と伝えられています。また、農繁期には夕方まで農作業をして、それから師のいる二本松まで行き、翌早朝には石森に戻るという生活で、師の前では睡魔を追い払うため唐辛子粉を口に含んで勉強した、との逸話も残っています。


書斎旧母屋

(左の写真) 佐久間庸軒の書斎と庸軒直系の求さん。
(右の写真) 佐久間家の旧母屋。庸軒塾はこの裏にあり、大変活気に満ちていたようです。
なお、通うことのできない門弟は、この母屋の2階に寝泊まりしていたそうです。



(2016年7月号)

[和算の里 長野県木島平村]

長野県の北部にある木島平村には、俳額が19面、松尾芭蕉の句碑が11基残っており、俳句の里とも呼ばれているようですが、人口5千人ほどの村にかかわらず 算額が8面、算塚(算子塚)も複数現存しており、和算の里として知られています。

木島平村の和算は野口湖龍(保敞、? ~ 1814) に始まります。

野口湖龍は、 計見村の野口惣右衛門家の養子となった後 30歳頃から和算を学び、当初は宮城流を藤澤近行、後に関流を小林松順から学び、免許状を得てからは多くの門弟を育てました。

村内の算額は、農村交流館内の「ふるさと資料館」に複製が展示されていますので、資料や解説と一緒に見ることが出来ます。

また、村内の遺跡からは大変珍しい形状の剣が出土されており、こちらも「ふるさと資料館」に複製が展示されています。


算額測量算額

上左の写真は、ふるさと資料館に展示されている水穂神社の算額(複製)。右の写真は、測量算額(複製)。



(2016年8月号)

山形に生まれた会田安明(1747~1817))は、1769年に江戸に出て、御家人株を買って幕臣となり、治水工事を担当していたようです。しかし、1787年に浪人となり、その後は和算の研究に専念するようになりました。

1781年には 芝の愛宕神社に算額を奉納しており、尊敬する関流第4伝 藤田貞資のもとへ入門しようとした際、この算額を訂正するよう指示され、これが原因で 以後20年余にわたり 関流と論争することになりました。

会田安明は余程負けず嫌いであったのか、研鑚を重ねて最上流を立ち上げています。最上流(さいじょうりゅう)は、 故郷の「もがみ」とbestの最上から命名したようです。関孝和の自由亭に対して自在亭と号し、通称は 算左衛門ですが、これは算冴門の意味なのでしょうか。



算子塚算子塚上部

上左写真の真ん中の石碑が東京の浅草新奥山にある会田安明の算子塚。右側は、力くらべで使われた力石で、左側の石碑は何故か亀の背中に乗っています。算子塚は門人等によって建立され、会田安明愛用の算盤が埋められたそうです。写真右は石碑の上部。

(2016年9月号)

江戸時代の後期には各地を旅して和算を教える遊歴算家と呼ばれる人たちが多く現れます。お寺や名主、裕福な農家といったところで塾を開き、村の若者などに数学や測量術を教えていました。山口和や 法道寺善などが知られ、また、剣持章行( 1790~1871 ) も自らの研究をしながら関東各地を歩き回って数学を教授していました。

剣持章行は上州吾妻郡澤渡村( 群馬県中之条町沢渡 ) に生まれ、農業・馬方などをしながら手紙による通信教育等により安中の板鼻で塾を開いていた関流の小野栄重から学んでいます。

小野栄重 没後は、江戸へ出て 内田五観の塾に入門したころから 和算遊歴を始めたようです。各地の門弟は 千有余人とあり、高弟である北総鏑木村( 千葉県旭市鏑木 )の山崎清渓 のもとに寄寓中 病没しています。富や名声を求めず、死の直前まで数学の研究を続けた人物であったようです。




顕彰碑


上の写真は、昭和8年に当時の古城村教育委員会が建立した剣持章行の顕彰碑。旭市鏑木の妙経寺の墓地に隣接する(共同?)墓地内にあります。



(2016年10月号)

和算家の山口和(坎山, 1781頃-1850?) は越後の国水原で小作農の家に生まれ、江戸の有名な長谷川寛の算術道場で17年間学び高弟となりましたが、1817年から1828年の12年間で全国を回る数学指導の旅を6回行っています。

各地の数学者とも広く交流し、神社やお寺に奉納された算額を書き写して記録に留め、また旅の様子を書き綴った「道中日記」は大変貴重な資料となっています。

この頃には、全国津々浦々に数多くの数学愛好者がおり、優れた数学者の来訪が待ち望まれていたようです。




山口和顕彰碑 瓢湖


上左写真は,阿賀野市外城町の水原八幡宮境内に建立されている「山口和の碑」(頌徳碑)。水原八幡宮は、白鳥飛来地として知られている瓢湖から道路一本隔てたところにあります。(右写真は瓢湖)

(2016年11月号)

千葉胤秀(1775~1849)は清水村(現在は岩手県一関市花泉町)の中農の家に生まれています。一関藩の家老を勤め、関流四伝 藤田貞資の門人であった梶山次俊に和算を学び、周辺の村々で教えるようになりました。この当時でも、門人は3千人程いたようです。

和算の教授で仙台に滞在中、たまたま同地を訪れた遊歴算家の山口和と出会って江戸へ行くことを勧められ、長谷川寛の数学道場に入門し、さらに研鑚を重ねました。一関に戻ってからは一層和算の普及に努め、周辺地域における和算は隆盛を極めることになります。

なお、千葉胤秀が編集し数学道場から出版された「算法新書」は 当時のベストセラーであったようです。




一関市博物館 千葉胤秀顕彰碑


上写真左の一関市博物館には和算コーナーがあり、「算法新書」その他いろいろな資料が展示されています。右は、一関市内の祥雲寺に建立された千葉胤秀の顕彰碑。

(2016年12月号)

一関市博物館では、千葉胤秀をはじめとする一関の和算家達の業績と和算の世界を紹介しています。

千葉胤秀が編集し、江戸末期から明治にかけてのベストセラーであった「算法新書」も展示されています。

一関市博物館では例年 「和算に挑戦!」 という事業を行っており、小・中学生向き、中学・高校生向き、高校生以上が対象 の3つの和算問題を現代的に分かりやすく出題して広く解答を募集しています。優れた解答をした方は表彰されるようです。詳しくは同博物館のホームページをご覧ください。 


一関市博物館 和算コーナー


上写真左は、一関市博物館。右は、館内の和算コーナー入口。



(2017年1月号)

1795年、大阪定番同心ながら浅田剛立に師事し天文学者として頭角を表していた 高橋至時(1764-1804)は幕府の改暦事業のため 兄弟弟子の間重富(1756-1816)と共に江戸に出てきました。 

佐倉で営んでいた造り酒屋等の家業から前年に隠居していた伊能忠敬(1745-1818)は、1795年 50歳にて江戸へ出て、19歳年下の高橋の弟子となりました。



この後、3人の大活躍が始まります。  


天文台案内板 住居跡地の案内


上写真左は、天文方となった高橋至時が天体観測 を行っていた「浅草天文台」跡地のすぐ近くの蔵前1丁目交差点角(東京都台東区浅草橋3丁目)に立っている案内板(左側)。右写真は、深川(江東区門前仲町1-18)にある伊能忠敬の住居跡の案内石。



(2019年2月号)

道脇先生奉納算額



上の写真は、数学基礎学力研究会の創設者である 故道脇義正前橋工科大学長・群馬大学名誉教授 が平成2年に群馬県桐生市の崇禅寺へ奉納した算額です。

いつか、数学基礎学力研究会でも、(現代調の)算額を奉納したいものです。

( 崇禅寺境内にある懐石料理の无量庵は人気があるようです。詳しくは、崇禅寺のホームページをご覧ください。)